正しさとは(ヨブ記 6:14〜30)

ヨブは神への信頼を失いつつある。ヨブ記はそれを絶望と呼ぶ。

「絶望している者にこそ友は忠実であるべきだ。」(6.14)
ヨブの主張は、苦しみの理由を(神の正しさで)解説して貰うことはではなく、むしろ友ならば苦しむ友と共に神を抗議して欲しいのである。

しかしこのヨブの要求に同意する時、私たちにとって何が正しいことか?とは最早単純ではなくなる。苦しむ友が神を抗議している。神への信頼を失いつつある。その時、友は神の正しさを語るのではなく、彼の正しさ(6.29)を支持し共に神に抗議するのである。

神と敵対してもそこに「正しさ」があるのか?最早「何が正しい事か?」ではなく、そもそも「正しさ」とは何であり、誰のために如何に機能すべきものなのか?という次元にヨブ記は私たちを引き込もうとしている。「隣人を自分のように愛する」その愛は神にではなく、むしろ神への信頼を失いつつある者(絶望者)に忠実である事までも要求しているのであろうか。

苦しむヨブに神の正しさを説いたエリファズに対し、ヨブは何が正しい事かではなく、そもそも「正しさ」とは何であるかを問い返しているように見える。

イエスは最後に「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのか?」と神に抗議して死んだ。まさにあれが絶望する人々に忠実である真の友の姿なのかも知れない。

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