真理よ、滅び去れ

もしかしたら真理(普遍的真理)なるものは存在するのかも知れない。しかしそれは環境が整えられた(個別環境を無視した研究室のような)状態において成り立つ過保護な理論である。我々人間は具体的な時間と空間と関係を生きている。よって様々な(例外だらけの)課題が存在し、真理なるものを方程式のように用いることは出来ない。研究室で誕生したものを否定はしない。しかしそれを現場に移設する時その現場で使えるように工夫を加える必要がある。にも関わらず、その真理はそれが妥当しない現場において、自らを振り返ることなく権威を振りかざし、その「正しさ」を保つために現場の固有性を否定し、それによって自らを肯定する。キリスト教会が犯した大罪は凡そ以上で総括できる。

人間は真理を追求する。キリスト教的に言い換えれば神の御心を第一に求める。しかし注意すべきは「人間は神ではない」という極めて単純明快でありながらも、それを自覚し得ない事実である。教会は真理を追求し続けているのであって、真理を知っているのではない。一致を求め続けているのであって一致してはいない。常に「し続けている」という動きの中に在る。これは少々厄介で、その状態を捉えることが難しい。出来れば方程式のように定まったものが扱いやすく権威を持たせやすいのである。

しかしその「しやすさ」「安定」の誘惑に陥ってはいけない。教会は常に動きの中にある。だから迷うこともあり、間違うこともあり、それ故忍耐せねばならぬ時もある。迷いそうな道を避け、間違いを犯す危険を避けて、それ故に権威に依存せねば成り立たぬ過保護でおまけに傲慢な真理に何の意味があるだろうか?

そんな真理は滅び去れば良い。

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