同性カップルは「生産性なし」と月刊誌に寄稿した国会議員がやり玉(人権意識の欠如、議員辞職、殺人予告)に上げられています。
思っていることを何でも口にして良いわけではありません。象徴的にいえば、馬鹿だと思う相手に馬鹿というのは失礼です。しかし人はその相手に失礼だから馬鹿という言葉を控えるのではありません。周囲からの批判や評判が一番恐いだけです。
「実は誰もが人口減少の深刻さを知っており、それに伴う増税や国の借金を心配している」という感じでヤヤ客観的に論じるなら安全かもしれません。しかし括弧内の冒頭を「実は私は人口減少の・・・」と展開するや否や、私はその国会議員同様やり玉に上げられてしまいます。
相手を傷つけることを目的とした発言は暴力です。暴力はよろしくありません。
しかしその国会議員の発言には差別的要素が含まれてはいますが、税金や国の借金に関わる問題として公に意見を述べているのですから、それについて内容的に反論すれば良いのです。というと「では、差別された同性愛者の人権はどうなるのか?」との批判が返ってくるのが恐いがために、その発言を控えるのは何故かという類の事を今私は問題にしているのです。
実はこの批判は内容的反論ではなく、批判される人の人間性に矛先が向けられた攻撃であり、故に恐怖を伴います。敢えて言うなら、ヘイトスピーチをも含めて、恐怖がそれを発言させないとするなら、その恐怖を抱かせているものはやはり悪であると私は思います。社会から阻害される事を恐れてヘイトスピーチが出来ない状況が生まれたとするなら、それは健全とは言えません。「しかしだからと言って安心してヘイトスピーチが出来るような社会が望ましいと言っているのではありません」という事を私は何故、誰に向かって弁明して置かなければならいのかという事を今私は問題にしているのです。
恐怖から逃れる為の手段(否、法則)として人は多数側に身を寄せます。社会学的にこれは同化であり、人は安全を求めて同化します。各論すれば同化の全てが悪とは言えませんが、多数という安全への同化は人から自尊心を奪います。
冒頭の国会議員を批判するのは、それを批判する側に居ることの表明であり同性愛者の痛みを共に痛むからではありません。同性愛者の人権を利用しその国会議員を批判して、自分の安全を確保しているに過ぎないのです。
我々は何に同化し、何が我々を同化させるのでしょうか。仮にこれを空気と呼ぶならば、この空気にこそ自尊心がなく、今日白組であっても突然明日紅組に変われます。
この得体の知れない「空気」というものを作ったり操ったり、またそれを察したり上手に乗っかったりすることが現代社会を生き抜くための最先端技術であり、近頃ベストセラーになっているハウツー本の殆どは(タイトルを見る限り)その類です。
集団社会においてこの空気を取り除くことは100%不可能です。しかしこの空気に細やかな抵抗ぐらいは出来るかも知れません。そしてその細やかな抵抗たちが、決して滅びない空気に、それでも完全な支配権を手渡さない役割ぐらいは担えるのかも知れません。
今や「セクハラ」と言えば「葵の御紋」の如く有無も言わせない空気が支配する中で、当事者は置き去りにされ、有罪無罪という二元論だけに関心が置かれ、利用され、素朴な疑問や反論があっても、それを恐ろしくて口にできないこの空気に同化する人々へ伝えたい。私たちは許されている。自尊心と批判を受け止める勇気を持ってこの空気を打ち破って参りましょう。
空気になんかに同化してしまうぐらいなら「お前は差別者だ」と非難されて、そこから成長していく人間でありたいです。