和解を求めて

『実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

エフェソの信徒への手紙 / 2章 14~16節

この新しい人とは和解のために生きる人です。神が人と和解するために、神自ら人となり、自らを捧げて下さいました。ここに真の愛があります。キリスト者とはこの愛を信じる者であり、自らも和解のために生きる新しい人であります。しかし主イエスの十字架による和解の業から明らかなように、私たち人間が和解に生きるのは至難の業であります。

人間とは自分の特のために全力を尽くすものです。しかし隣人のために自らを捧げなさいとする教えは特を追求する生き方を裁きます。恐らく私はその狭間で何方でもない中途半端な人生を送り、何も得ず、しかし何も捧げては来ませんでした。

何かに目標を定めてそれを獲得するために一生懸命になれている人を(たとえそれが金銭であれ)私は羨ましく思います。

自らを満たすことと、自らを捧げることは両立し得ないのか。私は新しい人になりたい。新しい人となることが、私が求める特と成るのであれば良いのですが。

しかし怒りの感情に一瞬でも支配される時、和解を生きる新しい人の困難さと、神の真の愛の深さに只々畏れ入るばかりであります。

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