面倒くさい関係

目指すべきは、誰もが対等な関係を育めることではないでしょうか。

先週、「第33回障がい者と教会の集い」で、参加者のAさんが発題されました。Aさんは視覚障がい者でPDST(心的外傷後ストレス障害)を負っています。Aさんの通う教会には点字の讃美歌と聖書が用意されている等、視覚障がい者にとって優しい環境が整っているようです。しかし障がい者のAさんには対等でないとの不満がありました。例えば礼拝中Aさんの隣に座る礼拝当番が決められていましたが、Aさんの希望でその当番は廃止されました。その日たまたま隣に座った人がAさんのお手伝いをすれば良いとの事です。

障がい者の雇用についての問題が最近話題になっています。一昔前は、障がい者が努力して社会参加する考えでした。しかし最近は社会のあり方が障がい者を障がい者たらしめているのであって、障がい者が努力して社会参加を目指すのではなく、彼ら彼女らの社会参加を阻む壁を社会自体が取り除く努力が社会の側に要求されています。

Aさんの発題は、しかしそのような配慮の行き過ぎがどこかで障がい者と関係を軽薄にするという事でしょう。障がい者に優しく暮らしやすい、また礼拝しやすい環境を整えることは大切ですが、どこかでその整えられた環境やシステムにお任せしてしまう一面があるのでしょうか。

その時、そこで困っている障がい者がいる。たまたまそれに遭遇した人が関わっていく。これはある意味面倒くさいことかもしれません。しかしそういった面倒くさく感じるものが、障がい者から見て、当たり前の血の通った対等な関係と言えるのでしょう。

障が者の社会参加を阻む壁を取り除いていく一方で、対等に近づいていくために「面倒くさく感じてしまう」関係を育んで参りましょう。面倒くさく感じなくなるまで。

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