イエスの真実(マルコ14:27-42)

 イエスは弟子が裏切るであろうことを知っていた。しかしイエスは彼らを裁くことなく十字架の道を歩まれた。そこに真実がある、というより、それが真実である。

命を賭けた誓いそのものと、その命を捨てなければならないその時との狭間に私たち人間の認め難い偽善がある。弟子らの罪はイエスを裏切ったことではない。命を賭けてイエスに従う(私は正しい)人であると偽った所に罪がある。聖書はこれを偽善とよんでいる。

偽善は人を裁く。偽善こそが人を裁くのである。人を裁く時、そこに己の偽善がある。「たとえ、みんなが躓いても、わたしは躓きません」(マルコ14.29)とペトロが誓ったように、私は他の者とは違うのだと、他を裁いてありもしない自らの義を立てる所に偽善がある。

神は偽善を嫌う。神は罪ではなく善人を装う者を嫌う。イエスは弟子らが自分を裏切るであろうことを知っていた。しかしイエスはそれを裁かない。最早そこにイエスの関心はない。否、確かにイエス自身も自問自答した。自らも他者を裁いて義を立てる者なのか、ただ神の御心を生きる(実行する)者なのか。ゲッセマネの孤独と悲痛がそれである。イエスの選んだ道に最早裁きは関心事ではない。ただ神のみ心の為に(今日的に言い換えれば)、平和のために自らが成すべきことを実行するのみである。

人間とは愚かで醜いものである。それはイエスが弟子の裏切りを知っていたように、私たち人間自身も知っている。しかし最早そこに私たちの関心はない。「関心はない」とは、どうでも良いという事ではなく、それを明らかにする事に熱心である必要はないという意味である。弟子の裏切りを避難する事より、それを知りつつ神の御心を歩まれたイエスの真実に従って参りましょう。

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