人のために

昨日、たまたまテレビをつけたら平良修牧師がお話されていました。番組(こころの時代~宗教・人生~「イエスと歩む沖縄」)の殆ど終盤でしたが、平良牧師は、イエスの教えによれば、神を大切にする(愛する)という抽象的な教えは、具体的に人を大切にすることであると説いておられました。
平良牧師はよく「何故牧師が労働組合のような活動をするのか?牧師は精神的な平安を伝えるべき」との批判を受けるそうです。しかしキリスト教会にとって伝道が第一義的なものではなく、人を大切にする、そのためにイエス・キリストを伝道するのだと平良牧師は応答します。
M.L.キング牧師が、神を大切にする故に黒人を大切にしたように、平良牧師にとっても同じく沖縄の人々を大切にするのであって、沖縄を愛することは世界を愛することであると結ばれていました。
平良牧師のお話を伺う中で、信仰とは自己完結するものではなく、隣人との関係(関わり)において認識したり体験することの出来るものだと再確認しました
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2.27)
以上は、番組の中で平良牧師も引用された聖書箇所ですが、律法は人が生きるために神が定めたものであり、そこに神と人の関わりがあります。人が聖書の教えに向き合う姿勢はこれと同じで、隣人を教えに従わせる(信仰者はこれを導くという)のではなく、隣人を生かす為に自らが教えに学び教えを用いていくものなのでしょう。そこに隣人との関わりが生まれ、その関わりの中でイエス・キリストへの信仰はいきいきと生きるのだと思います。

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