躊躇いの向こう側に

昨日、ヨルダン寮に於いてS不動産と新会堂図面(案)に関する意見交換が行われました。私たちにとって毎週訪れるこの河川敷の教会はさほど珍しいものではありません。しかし初めて訪れる方々にとって此処は不思議な所で足を踏み入れるのには些か躊躇いがあります。昨日、訪れた方も此処で良いのだろうかと堤防の上で迷ったとのことです

簡単に言ってしまえば食わず嫌いという類の話かも知れません。しかしやや深読みして宗教的に解釈すれば、人生には躊躇いを覚える領域の入り口に立つことがままあります。そして勇気を出し、その一歩を踏み込んで世界が広がる事もあります。

子どもというのは、いわば毎日がその連続かも知れません。しかし大人は社会性や常識を学び、それに照らして躊躇いを覚えたりします。しかしその学んだ社会性や常識というもの全てが客観性を持っている訳ではありません。

大人は誰もが自己を相対化出来ていない自分だけの常識を持っていたり、一般に認められているその社会性自体が無理解を抱えていたり未成熟であったりもします。実はそういうものが人間相互の対話や理解の妨げになっている部分もあるのではないでしょうか。

イエスはどこかでそんな社会性や常識を疑い、躊躇いの向こう側に一歩を踏み出して行った方なのかも知れません

毎週この堤防を超えて来る私たちは思い出しましょう。あの時初めて、恐る恐る、また期待と不安を抱えながらこの地に足を踏み入れた時の事を。そしてこの地で与えられた出会いと恵みを。

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