今しがた命を賭けてイエスに従うと誓った弟子らが居眠りをしてしまう程にイエスの祈りは長かったのでしょう。そしてその長さがイエスの不安と迷いを物語っています。
マタイの教会にとってこの弟子のていたらくとイエスの弱々しい有様は福音書に書き残したくなかったかも知れません。しかしこのゲッセマネの祈りに当時の教会の信仰が象徴されています。
私たちの信ずる主イエスは、恐れず殉教する救い主か、それとも怯えて迷いながらも神に望みをおく救い主でしょうか。おそらく多くの人が期待する救い主とは前者でしょう。しかし真に苦難と恐怖の渦中にある者にとっては必ずしもそうではありません。
十字架以前の弟子たちは恐れを知らない者たちでした。恐れを知らぬ者は安易に命をかけて誓います。しかし彼らはもろく、それに遭遇した瞬間逃げ去ります。
一方、主イエスは恐怖に怯え不安に陥りそして逃げたくなる程に迷われました。しかしそれを経て、深く味わった所で「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26.39)と神の希望に委ねました。
主イエスは人の弱さを味わい知っています。苦難と恐怖の渦中にある者にとって、これが救い主であり希望ではないでしょうか。ゲッセマネで弱々しく祈るイエス、それは福音書に欠かすことのできない希望の証なのです。