何処に希望があるのか(ヨブ記8.1-22)

ヨブの友人(二人目)ビルダドが語り始めた。彼は一人目の友人エリファズ以上に正統主義の立場からヨブを糾弾する。

あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ彼らをその罪の手にゆだねられたのだ」(8.4)

我が子を失い自らも病に苦しむヨブに対して冷淡極まりないこのビルダドの言葉は、詩篇1篇にその論拠がある。神の教えを愛するものは繁栄し逆らうものは滅びる。即ち滅んだ者は神に逆らった結果でありそこに疑問を差し挟んではならないという。しかしビルダドはそれ故に同じ論拠からヨブに希望を語る。即ち神に帰依するならば必ずや繁栄を取り戻すであろうと。

キリスト者の希望は何処にあるのか?もし苦難の只中にあっても神を信じてさえいれば必ず救われるというものであるなら、ビルダドの示す希望と何ら変わりはない。我らの希望は十字架の先にある復活の希望である。十字架とは己を捨てること。己を捨てるとは自分の義、栄誉、富の追求を放棄することである。これと表裏を一体になすものは自分の無力、無理解、不完全、即ち罪を素直に認めることである。この世は、そして人間は完成されていない。善人が栄え、悪人が滅びるという方程式は成立しない。誰がしも善人でありたいし、そう認められたいし、それ故に豊かでありたい。しかしその追求こそが、争い、憎しみ、怒り、疑念、妬みを生むのである。

何が膳であり何が悪か?それをわきまえ知ることは無駄ではない。しかしそれを己の義の立証に利用するのではなく、主イエスが身をもって示して下さったように、神と人に奉仕するために用いて参りましょう。

この世も人間も完成などされていないし、我々はその完成図すら持っていない。ただ十字架で死んだ神の生き様を知っており、その先にこそ希望あると信じて歩むのみなのだ。

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