ユダの手引きによって祭司長や民の長老たちの遣わした大勢の群衆が、剣や棒を持ってイエスを捕らえに来ました。弟子の一人が剣で抵抗するのを見たイエスは「剣を納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる。」(26.52)と彼を制しました。イエスは敵対する者たちが自分を捕らえに来たことを預言の成就と受け止めたのです。しかし弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去りました。人生において敵に遭遇した時の取るべき態度は重要です。
さて、ここでイエスにとっての敵と、逃げた弟子たちにとっての敵は異なります。弟子たちの敵は剣を持ってイエスを捕らえに来た者たちですが、イエスにとっては神の御心に背を向けさせようとする誘惑です。信仰者は何が自分にとって本当の敵であるかをその時々において正しく見定めその敵と闘わねばなりません。
イエスはゲッセマネの祈りで既にそれを闘われました。それは血の滲むような祈り(神との対話)でありました。イエスが経験したゲッセマネの祈りは、真実を追い求める者にとって避け通ることの許されない場であります。
何事も備えなくして突然の事態に正しく対処することは出来ません。キリスト者にとっての備えはまさしく祈りです。祈りは神との対話です。「出来るならこの盃を取り除いて欲しい」と思う人間的な弱さと、「御心がなりますように」と願う素朴な信仰とが格闘しながら祈りは神に捧げられます。そのような祈りがキリスト者にとって日々の備えとなり、いざその時に主を見失うことのない希望を生きることが出来るのだと信じて参りたいと思います。