神の正しさ(ヨブ記9.1〜24)

ヨブは再び語り始める。

「それは確かにわたしも知っている。神より正しいと主張できる人間があろうか」(9.2)

ヨブは友人たちの主張を追認する。しかしその言葉には強い皮肉が込められている。友人らが主張する神の正しさは、人知が及ばない神の領域の確保である。それにより人は神に責任を問えず、自らの無知と罪を認めざるえを得ない。一方ヨブによる神の正しさは、神の正しさそのものではなく、全てを支配するその強さであった。正しかろうが誤りであろうが、その無類の強さが反論を許さない正しさの正体であるとヨブは皮肉る。

弁の立つ者が正しいものだ。正しいから弁が立つのではなく、弁が立つ者が正しいとされている。弁が立つとは力である。力ある者が正しい。正しいから力があるのではない。力こそが正義なのだ。ヨブはその辺りを皮肉っている。

結局、何があっても神は正しく、それは人間に証明不可能で、神のなさることそれが「正しい」なのだ。友人らはその前提を崩さない。否、その前提を自覚していない。しかしその前提に疑問符を投げる時、この説明し難い理不尽な苦しみに対する恐ろしい、しかしスッキリする答えが顔を覗かせる。それが無神論である。

ヨブ記は、読者に無神論が忍び寄る。このヨブ記を読み進める時、無神論との闘いを避けることは出来ない。それは信仰者にとって死の影の谷間を歩むような恐怖である。しかしそれを見て見ぬ振りして避けるなら、それは友人たちの無自覚(神は正しい)と何がどの程度違うのかその説明責任だけは避けることは出来ない

「もしかしたら神はいないのかも知れない」。今、ヨブにはそんな恐ろしい答えが見え隠れしている。しかしヨブは信じたいのである。それ故ヨブは「何故ですか?」と神に問うのだ。

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