仲裁者(ヨブ記9:25-35)

 あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら

わたしの上からあの方の杖を取り払ってくれるものがあるなら

その時には、あの方の怒りに脅かされることなく

恐れることなくわたしは宣言するだろう

わたしは正当に扱われていない、と。(33-35)

信仰者が理由の見つからない苦しみ悲しみに遭遇した時、「神よ何故ですか?」と問うことはあっても、神と対等に和解交渉をする者はいない。ヨブは出来るなら法定で仲裁者立ち会いのもと神と対等な和解交渉を願っている。その意味する所は互いの非を認めて和解することであり、ヨブは神に過ちを認めさせようとしている。

しかしそのような事が出来るわけがない。もし神が過ちを認めるならばそれを仲裁した者こそが新たな神となりそれに改宗することとなる。ヨブはそれを望んでいない。故に神との和解交渉など成立しない。

しかし「仲裁する者が・・・」というヨブの言葉に接し、もしヨブが十字架の上で絶叫するイエスに遭遇したらと考える。仲裁とは対立し争っているものの間に入ってとりなし、仲直りをさせることである。もしかしたらヨブが求めていた答えは十字架のイエスにあったのではないだろうか。

主イエスは神と人の仲裁者(仲保者)である。しかも人間の側の苦しみを味わい知られた人となりし神であられる。神に過ちはあってはならない(のかも知れない)。しかしその神が人として苦しみを味合われた所に(説明によらない)ヨブの求める答えがあったのかも知れないと(今は何となくそう)思うのです。

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