共にいる神

(2018年12月24日 クリスマス・イブ礼拝説教より)

クリスマスのメッセージ。それはインマヌエル、神が共にいるという約束です。

子どもの頃、深夜のトイレが恐くて寝ている母をよく起こしたものです。何かをしてくれる訳ではありません。しかし共にいてくれるとは時として何にも代えがたい安心であり、真実であります。

2002年、川崎市の阿部市長は外国人の地方参政権について「国とは戦争をする単位であり、地方が国の立場を尊重する以上、外国人の参政権は認め難い。また正会員(日本人)と準会員(外国人)は違うということです。」という趣旨の発言をなされた。民族差別に反対する市民団体らがこれに抗議する記者会見を開き、キリスト教関係者(牧師)も呼び掛けに応じて多数同席して下さった。記者会見後、市役所前で民族舞踊を舞いながら抗議のデモを無許可で実施した。しかし記者会見に同席していた牧師たちはこれに誰も参加しなかった。ある人は距離を置いて遠くから見守っていた。おそらく個人としては参加したくても教会の責任ある立場上、無許可のデモに参加することは出来なかったのでしょう。共にいるとは存外難しいものです。

共にいる神とは如何なる神か。それ程ご利益はなさそうです。しかしインマヌエルの神は、恥をかいている者と共に恥をかき、怯える者と共にその恐怖を味わい、貧しい者と共に空腹に苦しみ、逮捕されるかも知れない違法なデモの中で共にシュプレヒコールを叫ぶ。そこにこそ真実があるのだという希望のメッセージがインマヌエルに込められているのです。

また主の降誕を伝える天使は同時に「恐れるな」と命じています。恐れを乗り越えた向こう側に希望のあることを伝えています。この「恐るな」とは「共にいる」という約束を根拠にしています。

深夜の恐いトイレの中で孤独であっても、ドアに隔てられ母の姿は見えなくても、直ぐそこにいる(共にいる)という約束が恐れを乗り越えていくのです。

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