生きるとは

自分が不要な存在であると思いながら生きる事ほど淋しいものはないかも知れません。毎週高齢者サロンに参加くださるHさんは90歳を迎え、膝に痛みを抱えています。最近はお会いする度に生きていても仕方がないと嘆かれます。高齢者の方々のこの思いは健康で自立している人には分かり難いものであり、しかしながら将来確実にその時を迎えるものです。

先月、川本創一兄が所属する京浜協同劇団の舞台「おりん」を観劇してきました。楢山節考という小説が原作で、いわゆる姥捨て山(うばすてやま)の物語です。村の年寄りは70歳になると「楢山まいり」に行くのが習わしでした。そこにはひとつ屋根の下の家族が食べて行く困難さと、その困難を打開するための非情な口減らしと、そしてそれを巡る親子の愛情と家族間の醜い対立が容赦なく描かれています。舞台は姥捨て山は過去の話ではなく今この社会がまさに姥捨て山であると結んでいます。

確かに医療や介護問題、更にはこの社会構造そのものに姥捨て山が見え隠れしています。病気や身体に障がいを抱える高齢者に「生きていても仕方ない」と嘆かせる背景が確かに存在する中で、私はHさんに返す言葉が見つかりません。

先月の高齢者サロンで参加者がHさん1人だけの時がありました。最近、膝の不調でサロンをお休みする事のあるHさんですが、その日は自分しか参加者がいないことを事前に知り、膝の痛みを押して参加して下さいました。

「今日はわたしが来ないとサロン出来ないから頑張って来たよ」

「ありがとう御座います。Hさんのお蔭で今週もサロンが出来ます。これからも高齢者サロンの為に来てくださいね」

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