それで良いのか?(ヨブ記 10:1~22)

「手ずから作られたこの私を虐げ退けて、

あなたに背くもののたくらみには光を当てられる。それで良いのでしょうか?」(10.3)

ヨブは、最早苦しみの理由ではなく、神の態度について、それで良いのかと問い正している。

神が肉の目を持ち、弱肉強食という人間と同じ見方をなさる。些細な過ちをも見逃さず、抗議しようものならより激しく怒り苦役を課せられる。創造者である神が被造物に対してそれで良いのでしょうか?とヨブは問い正すのです。

しかしヨブの「それで良いのですか?」とする神への問いは「そんな筈はないでしょう」とする期待の裏返しともいえる。

「善は栄え、悪は滅ぶ」とする箴言の知恵とは程遠い現実の理不尽さを目の当たりする信仰者は、その意味を問い、更に沈黙する神の存在に疑問を差し挟む。しかし信仰者は「そうではないでしょう?」という期待を込めて神に「それで良いのでしょうか?」と問い正すのです。

神はこのヨブの問いにどう答えるのか?やはり沈黙し続けるのか?しかし問題は「何故神は沈黙するのか?」と眺めている私は何者で何処に立っているのかとう事である。

ヨブ記は読者に観察を求めていない。

「それで良いのですか?」とする神への問いは、読者である私に問うているのだ。全てを失い苦痛に悶えるヨブを前にして、その苦痛の意味や神が沈黙する理由を考え悩んでいる私に対し、それで良いのか?とヨブは私に問うているのだ。即ち「そんな筈ではないでしょう」という微かな期待をヨブは未だ私に抱いているのだ。

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