ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(マルコ7.28)
あるギリシャ人の女が病に苦しむ娘の治療をイエスに願い出た時、イエスは「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」と治療を拒否しました。子どもたちとはユダヤ人、子犬は異邦人を譬えています。即ち、ユダヤ人の救いが先ず優先され、異邦人のお前に構っている暇などないということでしょう。
これに対する女の返答が冒頭の言葉です。女はイエスに対し、ユダヤ人から見てギリシャ人は犬に譬えるような卑しい人間なのかも知れないが、実際の犬でさえ子どもが食べ落とすパン屑の恵みに預かっているではないか?と食い下がりました。
これはイエスが一本取られた珍しい物語です。ユダヤ人の他民族に勝る選民思想はイエスも例外ではなかったのです。ただイエスは女の指摘を真摯に受け止め娘を癒やしました。
無意識に犯した過ちを他人から指摘され意識化される瞬間、人は恐怖と怒りそして拒絶が同時に襲いかかってきます。露呈する恐怖、無意識に踏み込まれた怒り、自分を守るための拒絶。これは他人から先生と呼ばれる人間ほど顕著です。
イエスの優れたところは、完璧さではなく真実に対する謙虚さであります。異質との出会いは自分の無意識を意識化し、絶対を相対化してくれるのです。
この日本で社会的少数者、弱者と呼ばれる人々は庇護すべき哀れみの対象ではなく(そのような眼差しや姿勢で向き合うべきではなく)、むしろ自分の無意識を意識化してくれる存在であると同時に、その無意識が生んだ少数者であり弱者なのです。
イエスのような真実に対する謙虚さを持って、その瞬間私に襲いかかる恐怖と怒りと拒絶に闘いを挑みましょう。