「矛盾を認める」 マタイ福音書27.1〜10(聖書研究より)
ユダの自殺は矛盾を抱えている。
マタイ福音書は、ユダはイエスによる救済の為に用いられたと証言している。イエスの十字架と復活は全ての民を罪から救うものである。しかしユダはその救済に用いられたにも関わらず、彼は後悔し首を吊って自ら命を絶った。誰が何と言おうと明らかにユダはその救済から外れている。救済に用いられた者が唯一救済から外れている。これは大いなる矛盾である。
矛盾は存在している。聖書自身が矛盾を抱えている。教える側は矛盾を嫌う。まして真理を宣べ伝える側であれば尚更のことである。この点において牧師とは全く不憫な役職である。毎週、矛盾なく語ろうとして苦しむのである。しかし聖書自身が矛盾を抱えているのである。だからと言って開き直る訳ではないが、やはりこの世は矛盾で満ちている。
我々はうまく説明仕切れないものの存在をやはり認めなければならない。真理のために無理やり矛盾を排除してしまうことは返って真理から遠ざかる。むしろ矛盾の存在を認める時、そこに真理へ通じる扉が開ける。自分の整理の仕方に欠陥があることを認めるのである。それを認める時、己を知り真理を求める謙虚さが生まれるのである。
特別永住者(旧植民地出身者とその子孫)の存在は日本の侵略戦争や強制連行等を否定する主張に矛盾する。故に速やかに消滅して欲しかった。法務省は寿命や帰化で戦後40年以内に消滅すると推計したが予想が外れてしまった。矛盾するものを排除して自らの主張を正当化してはならない。むしろ潔くその矛盾を認める事で自らの不完全を知るものでありたい。
矛盾なき主張同士が対立を生む。矛盾を放置はしないが存在している。人はそれを認め共生していくのである。真理へとまた一歩近づいていくのである。