横浜英和学院修養会講演概要※
私が人生で自由を最も意識したのは、みなさんと同じ高校3年生の時でした。みなさんには想像もつかない程、私の父は厳しい人でした。兄弟たちはみなその父から逃れるために家出をしました。私にはそんな勇気はなく、高校卒業と同時に一人暮らしを始めてやっと父の支配から逃れました。三畳一間の小さな部屋でしたがそこには自由がありました。
辞書には、自由とは「他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていること」と記されています。これを聖書的に言い換えるなら、自由とは「人を恐れず神の御心(真実)を生きる」という事でしょう。当時、私は父から逃れることは出来ましたが、聖書的な意味においては自由ではありませんでした。
私は1963年、在日朝鮮人二世(在日)として大阪に生まれました。28歳の時、神学校に入学するまで私は内田裕久という通称名(日本名)で生きてきました。日本に在留する在日の殆どは、虐めや差別を恐れて通称名を名のり(また帰化して)自分を隠して暮らしています。私にとって本当の自由は孫裕久という本名を名のる所から始まりました。
私たちの生きる社会(集団)は個人に同化を迫る力が働いています。「同化」自体は必ずしも消極的な概念とは限りませんが、自由や人権等の分野では全体(多数)と同様になる事であり、そこでは個人の意思や本性を控えなければなりません。即ちそこは不自由なのです。また同化を迫る力は空気のように気配を隠し、同化している事自体を気づかせない厄介な存在です。
使徒パウロはこの同化に抵抗した人でした。必死に同化状態(囚われの身)から自由になろうとしました。しかし人はこの社会で生きる限り同化から完全に自由にはなれません。みなどこかで妥協しながら生きています。それが現実です。しかし大切なのはそれでも自由になろうとする歩みを止めないことです。自由とは自由になろうとする意志に働く力です。その自由を(その力を)何に用いるのか。そこに私たち一人ひとりの他者とは異なる「私たちの生き方」があるのだと思います。
※ 毎年、天城山荘で行われる横浜英和学院(高校3年生)の修養会での主題講演の概要
修養会のテーマ:「私たちの生き方」
修養会聖書箇所:兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 (ガラテヤ5.13)
自分も、自由に賛成です。自由を望むか、利益を望むかについては、答えがないように思います。