関係性(ヨブ記11.1−20)

 ヨブを訪ねた友人の内ツォファルは最年少であった。それ故年長者らの議論に口を挟むことが出来なかった。しかし沈黙する神に「それで良いのですか?」と問い正すヨブの傲慢に沈黙を破ったのは他ならぬツォファルであった。

ヨブを襲った災難の原因は何であり彼に如何なる罪があるのか?これまでの論点はそこにあった。神の知恵は人知の遥か彼方にあって図りしれず、人間が自覚し得ない、しかし神から見て裁かれるべき罪があると前の二人は説いた。ツォファルは更にそこには本来裁かれるべき筈の「見逃されている」罪さえあるとし、その「見逃し」に神の深い恩恵を見ている。この神の恩恵に感謝して生きる所にヨブの回復の希望を置いた。

前の二人にはヨブへの同情と回復祈願が読み取れるが、ツォファルの言葉にそれは見当たらない。希望の有無はお前次第であると突き放している。

ヨブ記の結論部分を先取りするなら、38章で神は遂に沈黙を破り嵐のごとくヨブに言葉を浴びせかける。三人の友人の内ツォファルの主張がそれに最も近い。ツォファルは間違ったことは言っていない。しかし問題は、それをお前が言えるのか?という事なのだ。何が正しいのか?それは関係性を無視した次元には存在しない。我々はしばしば議論の中で言葉に詰まる。「言っていることは正しいのだが・・・」と。

神が直接人間に「言葉」で語ることはない。それはその人自身の内なる声であって、私と私の関係性の中にのみ聞こえる声なのだ。即ち結論部の神の言葉は、ヨブ自身がヨブに浴びせた叫び(納得)である。しかしそこに至るには、やはり友人らとの長い長い議論を経なければならなかったのだ。

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