「お前がユダヤ人の王なのか?」というピラトの尋問に対し、イエスは「それはあなたが言っていることです」と答えました。これは問いに対してYESでもなくNOでもない曖昧な回答です。
イエスの十字架に掲げられた罪状書きには「ユダヤ人の王イエス」と記されました。ローマ帝国の植民地であるユダヤで「ユダヤ人の王」を自称することはローマに対する反逆を意味し、イエスは政治犯として処刑されたのです。
さてピラトの問いに対し、イエスにとって厳密には二つの答えがありました。それは「ユダヤ人の王」の解釈によります。
- 予言に示されたユダヤ人を救いへと導く王。(油注がれたものメシア)YES
- 力(暴動)によってユダヤを独立に導く王。(政治的王)NO
ピラトの問いは、政治的な意味で問うています。したがってイエスの答えはNOですが、ピラトの意図を無視すればYESにもなります。更にYES,NOで答えること自体がその場に相応しい回答ではないという何ともし難い「すれ違い」がここに生じているのです。
例えば「あなたは幸せか?」という問いは裕福かと問うており、「あなたは成功したか?」という問いは勝ち組かと問うている。質問者が問う意味において私は裕福ではない。しかし幸せであり、いわゆる勝ち組ではないが敗者などと全く思っていない。質問者にとってそれは意識するまでもない当然が、此方には意識せざるを得ないトゲが含まれ且つ、それは関心ではない。十字架の死に勝利したイエスを神と信じる信仰者は、この世でそんな面倒くさいすれ違いを避けて通れない。
しかし、それがこの世の現実であり、我々はそこに生きている。故にそれらを無視する事は出来ず、かといってその土俵を共有したくはない。そんな時、曖昧ではあるが、YESでもなくNOでもなく、YESでもありNOでもある、話せば長くなるし、今話しても無駄に終わりそうだし、それでもお互いの為にハッキリさせた方が良いと思うのは「あなたと私は今すれ違っている」その事を共有しておく事は明日に繋がると思うので敢えて申すことですが、
「それはあなたが言っていることです」とイエスは答えたのだ。