もう一つの道

教区平和フェスタ 開会礼拝説教より

3/21、二宮教会で「沖縄の心を受け止める」と題して第16回教区平和フェスタが開催され、山田啓人牧師(藤沢大庭教会)の説教で開会礼拝を守りました。

沖縄でのご自身の牧会経験からヤマト人として如何に沖縄と向き合い自分に何が出来るのかを苦闘したご経験を通じての真に示唆深い説教でした。

創世記2章4節から始まる創造物語は禁じられた木の実を食べた事件、互いの責任転嫁、そして兄弟殺人へ至る人間の罪と堕落が描かれています。善悪の知識の木の実を食べるとは支配の象徴です。人間は被造物として禁じられた一線を超えてしまった時、神が王ではなく人間が王となる支配と分断の歴史が始まりました。即ち人間は神との関係を断ち被造物としての命を失ったのです。本来被造物らは全て関係と連鎖の中で共生すように創造されたにも関わらず、被造物としての命を失った人間は人間を支配し、また自然を、生き物を支配しました。まさしくそれは沖縄で強行されるコンクリートブロック、フロート、オイルフェンス、護岸工事であり、それらがすべて命の連鎖と関係を破壊しています。

神は殺害されたアベルに代わってアダムとエバに新たな子セトを与え、セトからエノシュが誕生します。このエノシュとは弱く、小さく、儚い存在としての人間という意味だということです。このエノシュの時代から主(ヤハウェ)の名を呼ぶ(崇める)ようになりました(創4.26)。即ち神はアダムという本流から、もう一つの流れの人間を造り、エノシュによって人間とは弱く、小さく、儚いものであることを示しています。そしてそのように造られた人間は、互いにその弱さ、小ささ、儚さを担い合っていくのが、被造物としての本来の生き方であるという事です。山田牧師は最後に次の言葉で説教を結ばれています。

「ヤマトとして生きる生き方に、私たちは問いを与えられていると思います。どのような答えが見いだせるのか、私たちはエノシュとして造られた人間だということを自覚しつつ、問いに向き合っていきたいと思うのです。」

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