時代

「平成最後の」という言葉を聞かない日がない今日この頃、「時代」について考えてみた。インターネットで時代を検索するとトップに出たのは中島みゆきの「時代」であってウキペディアではなかった。時代とは「時間の継続性の観点で特徴を持った1区切りを指す。」とやや摑み所のない説明がなされているが、中島みゆきは「あんな時代もあったねと、いつか話せる日が来るわ」と唄っている。

皇位継承毎に定められる元号は権力の機械的な時代区分であって、中島が唄うような人間が心と肌で感じる時代とは異なる。また、敗戦、冷戦、ベルリンの壁崩壊のように、明らかに人間の人生に強い影響を与える何かが終わり、また始まるというものでもない。確かに平安時代、鎌倉時代のように歴史を学ぶ単位としての機械的な時代区分があることを否定はしない。しかし中島の唄う「時代」的感覚からすると、元号とは実は無いものを、さも有るかの如く「平成という時代」なる虚像を創り出し、そこに人間を無理やりはめ込んでいるように感じるのだ。これは人間がそれを振り返って感じたり、切り拓いたりする時代とは異なる不自然性がある。時代とは人間が人間であろうとする営みから結果として生まれ、そして未来に求めていく人間の証明ともいえる大切な一要素ではないだろうか。

先日、娘のアルバイト先からの「保護者への同意書」にサインをした時、日付欄の元号を消して西暦を記入すると、娘は「平成って書いてあるのにわざわざ・・」と言ってほくそ笑んだ。今思えば、あれは単なる天皇制の否定に留まらない。時代を心ろ肌で感じる人間、時代を切り拓いていく人間でありたいが故に、虚像の時代区分にはめ込まれる事を拒否する、人間であることの確認作業だったのかも知れない。

「今はこんなに悲しくて、涙も枯れ果てて、もう二度と笑顔にはなれそうにもないけど。そんな時代もあったねと、いつか話せる日が来るわ。あんな時代もあったねと、きっと笑って話せるわ。だから今日はくよくよしないで今日の風に吹かれましょう・・」

中島みゆき「時代」より

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