理解者(ヨブ記13.13-19)

「わたしのために争ってくれる者があれば、もはや、わたしは黙って死んでもよい」(13.19)

 友人たちの態度は、それが善意であったとして、ヨブに対して神の役割を演じ正論を語っているだけに過ぎない。ヨブは真の神に語りかけているのである。(13.3)

ヨブは「ただ待ってはいられない」(13.15)という。忍耐とは待つことかもしれない。しかしパウロの言う忍耐とはただ呆然と待つことではなく自分から和解に向けて歩む時に、どうしても捨てねばならない自己との格闘を意味している。

確かに神に抗議するヨブの態度は不信仰とも言える。忍耐に欠けるようにも見える。しかしヨブは今自分が信じる真実(わたしの道)を神に申し出るのは、神を信じるが故である。

忍耐とは神の御心を求めて歩む渦中において立ちはだかる幾多の壁をひとつ、またひとつ乗り越えていくようなものかも知れない。この忍耐の渦中においてヨブは正論を語る者ではなく、理解者を求めている。確かに他者に理解してほしいと求める所に自分を捨てきれない不信仰を認めざるを得ない。しかしただ一人として自分を理解してくれる人がいなくても、神さえ理解して下されば良いという信仰を完全に生きる人間がいるだろうか。まして理解しがたい苦痛に悶えながら神が沈黙するとき、ひとりでも私を理解し、私のために争ってくれる者があればと願うことは不信仰であろうか。然り不信仰であっても良い。しかしその信仰の故に忍耐する者は時として、説明はいらない、何が膳で何が悪かという答えもいらない。ただ黙して寄り添い理解してくれるひとりの友を欲してやまないのである。そのひとりの友なくして人間は神の御心に迫ることは出来ない。

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