主のご受難を憶えるこの時、私は本年2月に病死した原龍馬君を思います。
川崎戸手教会での夏季伝道実習以来、「俺は孫裕久の一番弟子やぞ」と甚だ迷惑な事を人前で言いふらす原龍馬に私は、「何故、牧師になるのか?」と問いました。彼は「歴史に名を残すため」と答えました。献身者としては最低最悪の回答でした。私は彼を厳しく叱りました。しかし同時に私は彼にサウロ(パウロ)の姿を重ねて見ていました。それはエルサレムのユダヤ人に対して激しい劣等感を抱き、我が身を立てるために懸命になるサウロの姿です。彼はキリストのためにではなくキリストによって我が身を立てる事に懸命でした。隣人のためにではなく、隣人を助ける強い自分で有りたいとする願望に囚われていました。
イエスは弟子に、自分を捨て自分の十字架を背負って従うことを要求しました。自分を捨ててこそイエスの歩んだ十字架の道に救いと希望を見出すことが出来ます。しかしキリスト者はみな本当に自分を捨ててキリストに従っているのでしょうか。少なくとも献身者である牧師はどうでしょうか。日常で抱く不安、不満、嫌悪、羞恥、嫉妬、恐怖、悩み、怒り、これらの感情は一体何処から出没するのでしょうか。それは紛れもなく、捨てきることの出来ない自己保身や自己満足からではないでしょうか。
薄々感じていた事ですが、私が原龍馬に抱いた怒りの正体は、彼が私を映す鏡のような存在であったということです。原龍馬は私です。それ故にいつも激しく叱り、それ故に愛しい男でした。
彼の残した「歴史に名を残すため」という言葉は私の十字架です。これより後、制御できない感情に襲われる度に私は原龍馬の残した言葉の前に襟を正します。今日も彼は私に問い返します。「何を恐れ、何を恥じ、何に苛立ち、何に怒っているのか?あなたも歴史に名を残したいのか?」と。
我が愛弟子原龍馬君、わたしと共にわたしの心に生きつづけよ。