「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。(中略)他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。(マタイ27.40-42)
十字架に架けられたイエスを人々は口を揃えて嘲りました。それは他人を救えても自分自身を救えない滑稽で惨めな姿に対してであります。
人間の愛が自己中心とするなら、神の愛は他者中心というべきでしょう。神の関心は常に他者に置かれています。言い方を変えれば、愛とは他者が救われる為に注がれる自己のエネルギーです。しかし人間はそのエネルギーすらも自分を救うための投資にしてしまう程に自己中心という檻の中に深く囚われています。たとえ他者のために命を捧げても、それが自分を誇ろうする為なら無に等しいとパウロも指摘している通りです。(コリントⅠ13.3)
もし完全なる他者中心の愛が存在するとするなら、それは(決してガンジーでもキングでもない、英雄として最後を遂げた者の内にではなく)他人は救えても自分を救えない、あの滑稽で惨めな十字架にこそ顕れています。あの十字架が自己中心という檻を打ち砕き、我らを解放する希望であります。
わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。(ヨハネの手紙一4.16)