先週6/28、ハンセン病患者らに対する国の隔離政策で、その家族も深刻な差別被害を受けたと訴えた裁判(ハンセン病家族訴訟)で、熊本地裁は国の責任を認める判決を下しました。「ハンセン病は恐ろしい伝染病である」という誤った理解のもと患者たちを療養所に収容したかつての国の隔離政策は、社会での差別や偏見を生み、患者だけでなく家族を苦しめました。判決で、裁判長は「国は隔離政策によって患者の家族が偏見差別を受ける一種の社会構造を作った。家族の関係も阻害した。さらに、国が偏見差別を除去するための行為を行わなかった」ことを認めました。
この世に人間が在る限り差別や偏見は存在し続けるのでしょうか。同和問題に取り組む稲積謙次郎氏(ジャーナリスト・元西日本新聞社編集局長)は差別偏見について以下のように述べています。
「あらゆる差別や偏見というのは人間の違いを認めず、違いによって相手の人格、あるいは国や民族に優劣をつけ軽蔑し排除すること。これが世界共通の差別や偏見の構造です。この違いによる差別というものは、必ずしも自然にあるものではなく人間によって政治的、経済的、社会的、文化的につくられた異質性、つくられた違いによるものであり、ここに差別の本質があると思います。人間によってつくられた異質性による差別であるのなら、人間の努力によって差別を解消できるという確信もまた抱けるわけですから、そういう自覚が今私たちに問いかけられているのではないかと考えます。」
先週6/24、川崎市は差別禁止条例の素案を公表し、特定の人種や民族を侮辱し、憎悪をあおるヘイトスピーチを繰り返した場合、50万円以下の罰金とする全国初の刑事罰を盛り込みました。
今は規則や罰則に頼らねばならない人間の限界を認めつつも、ハンセン病家族訴訟、川崎市の差別禁止条例等、差別や偏見に抗うこれら努力の積み重ねの先に差別のない社会が訪れる事を信じて参りたいと思います。