故郷の言葉

先週、私たちはペンテコステを迎えました。使徒言行録によればその日、イエスの弟子たちは聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出しました。その出来事に外国生まれのユダヤ人(ギリシア語を話すユダヤ人 使6.1)らはめいめいが生まれた故郷の言葉で神の偉大な業について聞かされ大変驚きました。

正月やお盆に帰省した時、人は生まれ育ったその故郷の言葉に戻ります。しかし関東に暮らしていますと大抵の人はその故郷の言葉をあまり用いません。それは何故でしょうか?

ペンテコステの事件とは、人間各々が神の言葉を理解してひとりの神に接近(集中)していくものではなく、神の側から人間各々に接近し、それぞれに届く言葉で広がって行った事を伝えたいのだと思います。神の言葉は人の子となり、十字架と復活を経て聖霊が下り、弟子たちは一人ひとりに届く故郷の言葉を語りだしました。

神の国を受け継ぐための努力はいりません。それは努力して受け継げるものではありません。神の国を受け継ぐ事、それは自分の故郷の言葉をただ承認するようなものではないでしょうか?

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