パンを裂く共同体

キリスト教は如何なる共同体なのか?もちろん宗教団体である。しかしその核となるものは信仰であり、その内容が信仰告白である。しかし何故そのような信仰を告白するのかという部分が実は最も重要なのかも知れな

申命記26章はイスラエル最古の信仰告白であり、その内容は神がエジプトで苦しむ先祖を救済し、約束の土地を与えて下さったことを収穫の感謝として告白しているしかしその結語は貧しい者たちとその収穫を分かち合いなさいと命じている。即ち、信仰告白というものが無前提に存在しているのではなく、先ずそこに空腹に喘ぐ人々が存在し、彼らとこの収穫を分かち合うべきではないかという問いが先行している。そこに「かつて貧しく虐げられていた先祖を神が救い、その神がこの土地を与えくれた。そのお陰で我らは今日このような収穫に預かっているのではないかならばこの収穫を今空腹に喘ぐ彼らと分かち合うのは当然ではないか」という答え(根拠)として信仰告白されているのではないか。

何のためにその信仰を告白するのか、それは時代状況によって様々であるが共通している点は、隣人と共に生きるという要請である。使徒言行録20:7以下によれば原初期のキリスト教の集会はパンを裂く(分かち合う)事が中心であった事を確認できる。これは律法を守る共同体(言葉)からパンを裂く共同体(分かち合う)へ変わったのだといえる。即ち、「何が正しいのか?」を追求するのではなく(他人の罪を裁くのではなく)、目の前の隣人とパンを裂く、共に分かち合う、それがキリスト教の原点だということだ。やかましく言えば、律法を守り、そのご褒美として将来神の国に入れてもらうことを待ち望む共同体から、今パンを共に分かち合っている此処に、否これが神の国がありそれを今既に生きている共同体、それがキリスト教会なのだということである。

それ故に聖餐式は礼拝において欠かすことのできない要素である。そして今何故このパンと盃をみなで分かち合うのか?(何故共に生きるのか?)元来、信仰告白や説教はその根拠として告白され語られるべきものなのであろう。

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