何故わたしを見捨てたのか(マタイ27.45-56)

エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになったのですか)

十字架上でのイエスのこの叫びはキリスト者にとって躓きとなりました。それ故にその躓きの石を取り除くための解釈が研究者の間で試みられて来たのです。しかしこのイエスの叫びはそれを耳にした者(私自身)がそのまま受け止めるべきものです。

人は神の御心を祈り求めつつも所詮観念的にしかそれを理解しようとしません。その象徴が教理や信仰告白のようなものです。一方神は人間を理解するために自ら人となり人として十字架にかかりその痛みを肌で味わい人としてその悲痛を神に叫んだのです。十字架上でのイエスの叫びは神が命をかけた人間理解であります。(という人間の観念的な理解ではありますが・・・)

一方、人間は「待て、エリヤが彼を救いに来るか見ていよう。」と観察しています。命をかけて人間を理解しようとする神と、その神を観察して理解しようとする人間が対象的に描かれています。実はこの人間の姿勢が「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」という叫びに躓かせるのです。「何故、救い主が神に絶望の言葉を叫んでいるのか」と観察しているからこそ、理解に苦しみ躓くのです。

今日もイエスは叫んでいます、沖縄で、被災地で、そして・・。神様何故?というその叫びは他ならぬそれを耳にした私に向けられたものです。何故わたしを見捨てたのかと、イエスは私に問うているのです。これは観察すべきものではなく、私に向けられた問いなのです。キリスト者とは、日々この問いの前に立たされていることを知っている者であるといえるでしょう。何故わたしを見捨てたのか。たとえ今この問いに答えられずとも、絶えず背を向けないで生きて参りましょう。

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