祈りを生きる

第二次世界大戦中にヒトラー暗殺計画に加担したボンヘッファーは、獄中書簡(抵抗と信従)で次のように述べている。「われわれが、今日、キリスト者であることは、ただ二つの仕方においてのみ成り立つ。それは、祈ることと、人間の間で正義を行うことである」

ここでボンヘッファーがいうところの正義とは、ナチスによるユダヤ人迫害に対して何の声も上げることの出来ないでいた教会の「罪責」を背景にしている。そして祈ることには熱心な教会に対して、(イエスが神を愛することと、人を愛することを併置したように)その祈りは即ちそれ(正義)を自らが行って完成することを説いている。ボンヘッファーによれば、そのような祈りこそが教会の告白なのである。

教会の告白(信仰告白)は教会内の一致を目的としていない。一致することと一致をめざすことは似て非なるものである。一致するとはつまり「同化と排除」に過ぎない。そしてその主体は多数派であって残念ながら彼らはその自覚がない

教会の告白は祈りである。しかしそれは礼拝堂の中で小声で囁かれる祈りではなく、礼拝堂の外側へ大声で告白されるべきものであり、そうであるが故にキリスト者は人間の間で正義を行わねばならないのである。

律法主義とは詰まる所、他者の罪を非難してその者を神から遠ざけ、相対的に自分の方が神に近い(善人である)ことに満足する生き方である。最近、政界も芸能界も、そして我らの日常も、他人の罪をやゆすることに騒がしく、それ故に賑やかである。律法主義は時代や文化や宗教さえも問わず今も昔も根本的に何も変わっていないように感じる。

神に祈り、その祈りを生きる。ボンヘッファーがいうところのキリスト者たる生き方に自由と解放があることを信じて参りましょう。

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