違いを認めつつ

先週、礼拝後第34回「障がい者と教会の集い」に参加して参りました。1泊2日、障がい者と過ごすこの集いは毎回気付きを与えてくれる時です。

それは夕食時の事です。私の前には視覚障がいの方が、左隣には聴覚障がいの方が座っていました。視覚障がいの方が、聴覚障がいの方に質問しました。食事前に視覚障がいの方が、相手の口の動きを読み取って話を理解する口話の困難さに関する発題をなされたのですが、質問の主旨は何が言いたいのか全く理解できないというものでした。実は私自身、彼の質問の内容が理解できないでいました。即ち何が理解できないのかが理解できませんでした。手話通訳する方もやや混乱していました。

しばらくその良く分からないやり取りを通じて少し分かったことは、そこには見えない人、聞こえない人、そして見えて聞こえる人の三者いました。三者は何とか互いの話を理解しようと努力し合っていました。主張し合っているのではなく、三者それぞれが互いに何かが欠けているが故に何かを理解できないでいる自分がいることを確かに理解しながら相手を理解しようと努力していたのです。

私の言語で表現する限界を越えてしまっていますが、そこにはもどかしさがありました。三者は明らかに互いが違うことを知っていました。その違いが理解できない原因であることの予測は立っていました。その違いは確実で互いに変えることの出来ないものである事を知っていました。即ち見えるようになることを要求したり、聞こえるようになることを要求したり、また見えず聞こえずになることを要求したりはしません。その前提で(即ち違うことを認めつつ)違うが故に理解出来ないでいることを三者は理解し合おうとしていました。

そしてその未だ理解し得ない理解の延長に見えるとは何か?聞こえるとはどういうことなのか?それらを手探りで探し求めているようなそんな感じがしたのです。うまく言えませんが、世間一般でいうところの「違いを認める」というのとは違って、その違いが何であるのか、私に欠けているものを相手は持っており、相手が欠けているものを私は持っている、それが何なのかが、理解できないでいるそこにその理解に迫る道があるのだということを。

毎回、見えて聞こえているが故に、大切なものが見えず聞こえずにいることを身に染みる集いであります。

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