Facebook等の「いいね」に象徴されるように、今日人々の関心は極度な他人からの評価や人気に囚われています。これを命名するなら「いいね文化」が適当かもしれません。
芸能界は人気商売です。したがって芸能人が人気を集める為にやっきになるのは当然でそれをヤユするのは誤りでしょう。しかし今や芸能界に限らず現代人は須らく「いいね」という軛を負わされているように見えます。アクセスカウント、フォロアー数、視聴率、評価☆数、そして内閣支持率等。全ての物差しが「いいね」の数であり、「いいね」の数を獲得することが喜びであり影響力であり再優先課題であります。
本来、内閣支持率というものはその政策と結果が評価の物差しであるべきです。しかし象徴的に言うならば、今は銀座で米大統領と寿司を食って「いいね」を獲得し、その追い風に乗って消費税引き上げという手法になっています。即ち政策ではなく「いいね」が重要なのです。それが「いいね文化」です。
現代人は自分自身でその中身を吟味する能力を失い「いいね」の数でしか評価できず、その数を獲得することだけに一生懸命になる方向に向かっているように思います。そして「いいね」は結果として「よくないね」(嫌われ者)を生み出します。
宿命とでもいうべきでしょうか、やはり生まれつき好かれる人がいれば、嫌われる人がいます。好かれる人は人から好かれようと努力する必要がありません。しかし嫌われ者は、嫌われているが故に人に気に入ってもらおうと努力するのです。そしてその努力の内容がお粗末でその努力の故に更に嫌われるのです。キリスト教は「いいね」を獲得するための宗教ではありません。それは我々の言葉では律法主義です。
聖書には嫌われ者が登場します。その一人が徴税人ザーカイです。彼は最後善人になりましたが、イエスはザーカイを善人にする為に彼を訪ねたのではありません。イエスが行ったことは一つ。嫌われ者ザーカイの友となった。それだけ且つそこまでです。その後彼が生まれ変わったのは、また別の話なのです。
キリスト・イエスに見習い「いいね文化」に埋没する現代社会に対してキリスト教とは何であるかを告白するなら、「いいね」を物差しとせず「いいね」を貰えない嫌われ者の隣人となり共に生きていく宗教、それがキリスト教であります。
蛇足:因みに私は典型的な嫌われ者であることを自覚していますが、そう言うと誰かが言うでしょう「先生そんな事ないですよ」と。そこが問題なのですと言いたかった一週一言でした。