泥を被る(余滴)

先週「泥を被るために」と題して説教しました。嫌われ者ザーカイを訪ねことはイエスにとって泥を被ることでした。私たちも同様この土手下に来たのは泥を被るためであるなら、今回の被災で落胆することは何もないと説教を結びました。

しかしキリスト者としての信仰と人間としての限界の狭間で「ではどこまで泥を被ることが可能か?」という問いが惹起します。自分の十字架を背負ってイエスの御後に従おうとするキリスト者は日常に置いてこの問いから逃げることは出来ません。

しかし逃げ口上ではありませんが、その問いの設定自体が実は問題なのです。どこまで可能か?どこまで従えるか?という入口から入ると決まってその出口は律法主義に至ります。ザーカイの物語に例えるなら「イエスのように私はザーカイを訪ねることが出来るだろうか?」と迷ってしまうのですが、そのような問題設定は自ずと出来るものは救われ出来ないものは滅びるという律法主義的な結論を導いてしまいます。聖書とは「どこで読むか」という一点に掛かっています。嫌われ者は食事に誘ってもらえず、家に泊まってくれる人もいません。そんなザーカイにとってイエスの訪問はめちゃめちゃ嬉しいことでした。私を見つけ私の家に来て共に食事し宿泊してくれた。ザーカイにとってこれが福音なのです。言い換えるなら「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」という泥を被ってくれたことが真実なのです。

泥を被るとは、どこまでそれを被れるかという問題設定ではなく、ザーカイの喜びから見つめるとき、具体的な現場において自ずと相応しい答えが導かれるのでしょう。

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