ヨルダン寮(3)

さて金萬守アボジより与えられた家屋はヨルダン寮と命名され寮生たちが暮らし始めました。この第一歩は極めて大きな一歩であったといえます。寮生たちは河川敷で生まれ育つ子どもたちと出会い、彼らの学習支援などを通じてヨルダン寮は用いられていきました。
出会いというものは道端でバッタリというものではなく、必ずそこに人が集う居場所が一役買っているものです。言葉は雑ですが、関田牧師は河川敷内に場所を確保し、そこに人を放り込めばそこから何かが始まるとお考えであったのではないでしょうか。ヨルダン寮とは何のか?それは建物自身ではなく人が集い出会う居場所であります。
河川敷とは街区から隔てられた場所であり、そこに暮らす人々は何らかの事情で街区に暮らせなかった人々ですすなわち街区と河川を隔てる堤防は空間だけではなく人と人の関係をも遮っているのです。そこにヨルダン寮が誕生しました。それは隔てられている所に関係の回復を目指すものでありました。
日本基督教団による第二次大戦下の罪責は、その信仰が教義など観念的なもののみに陥り、隣人の痛み苦しみ悲しみという現実を軽視してしまった所にあります。その反省として「戦責告白」があり、その実質化として多摩川河川敷に生きる人々との共生を宣教の課題として川崎戸手教会は与えられました。その第一歩として神は我らにヨルダン寮を与え給うたのです。

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