ヨルダン寮(6)

数週間に渡って部分的ではありますがヨルダン寮の歩みを振り返りました。今回はヨルダン寮を神学的な観点から考察し最終回と致します。
ヨルダン寮は神を礼拝するために神に献堂した教会堂であります。したがって神学的にその所有権は神に帰属します。また同時にヨルダン寮は川崎戸手教会の生き方そのものであります。戦責告白とか宣教方針とか言語化されたものに留まらず、その言語化されたものが形として在るものそれがヨルダン寮です。
非礼を承知で比喩すれば「言葉が肉となりたもうイエス、そのイエスを見たものは神を見たのだ」との如く、川崎戸手教会の宣教はヨルダン寮であり、ヨルダン寮を見たものは川崎戸手教会の宣教を見たのです。
全てに始まりがあり終わりがあります。敢えていえば終わりが大切です。イエスが神の子である所以はその終わり方に根拠を置いています。即ち十字架によってイエスは神の子であり復活の希望が与えられました。等しくヨルダン寮の終わり方は今日までの川崎戸手教会を総括し、今後を方向付けるものです。
現在新会堂建築をすすめる最中、ヨルダン寮から新会堂へ確かなバトンを手渡して参りましょう。

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