雨ニモマケズ

昨日、沢知恵さんによる「ピアノ弾き語り チャリティー・コンサート」が清水ケ丘教会に於いて開催されました。来場者はキリスト者に限らず又、沢知恵という名前すら知らなかった方も大勢いらっしゃいました。しかしほぼ満席に埋まった礼拝堂は沢さんの歌とお話で一体となりチャリティーに相応しい素晴らしいコンサートとなりました。
アンコールを含め14曲歌われた中で「雨ニモマケズ」がありました。ご存知の宮沢賢治の詩に沢さんが曲をつけたものです。メロディーに乗せられた「雨ニモマケズ」を聴きながら最後の一節が心に響きました。「そういうものに わたしはなりたい」。この最後の一節を何故今まで見落としていたのか驚きを禁じ得ません。「雨ニモマケズ」は宮沢賢治がそういう人であったということではなく、彼がそれを欲していたということです。
キリスト者は自己を捨て、捨てきれない自己に苦しむものです。「雨ニモマケズ」に描かれる人物像は泣き言や不平不満を言わず、欲を捨て隣人のために奔走しつつも誰からも関心を寄せられない空気のような存在です。まさに自己を捨てた究極の姿が描かれています。
私はこれまでキリスト者とは自分が如何なる存在に成りたい等と欲してはならず、ひたすら自分を捨てることに専念すべきと考えてきました。仮にその人物像がガンジーのような人であれ、そう成りたいとそれを欲した瞬間、神ではなく人の評価や関心を得んとする偽善が表出すると考えるからです。しかし改めて「雨ニモマケズ」を読み直す時、それこそは欲して神に許されるものと思います。
実は何事も欲するより捨てる方が難しいものです。イエスに従うために自己を捨てるのは至難の業ですが、イエスに従うために「雨ニモマケズ」を欲することは捨てることよりヤヤ易しく且つ神のみ心に適うことではないか。沢知恵さんの歌に乗せられた「雨ニモマケズ」を聴き終えた瞬間、そう思ったのでした。

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