「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
数々のイエスの残した言葉の内、これは教会とキリスト者の歩む方向を指し示しています。結論を先取るならば、それは復活の希望は十字架の先にあるという意味です。十字架を経ることなしに復活の希望へは至りません。
イエスは十字架で命を捧げましたが、一粒の麦が地に落ちて死ぬとは必ずしも命を捧げることのみを指しているのではありません。
パウロが言うように、たとえ命を投げ出してもそれが自分を誇るためにすることであるなら、そこに何の意味もありません。
自分を捨てるとは、聖書的には「全ての栄光を神に帰する」ことであり、世俗的には「報いを求めない」ことであります。一粒の麦が己の報いを求めるならば、そこに多くの実を結ぶことはありません。この場合の多くの実とは希望であります。
川崎戸手教会は河川敷において地に落ちた一粒の麦でありえたでしょうか?新会堂建築後、新たな宣教の場を与えられていますが、川崎戸手教会は、この地で地に落ちる一粒の麦足り得るでしょうか?
全てに始まりがあり、終わりがあります。しかし一粒の麦、地に落ちて死ねば、いつまでも多くの実を結びつづけていくことでしょう。そこに永遠の命があります。
しかしここで大切なのは、この「地に落ちて死ぬ」とは具体的に如何なることかという問題です。これに普遍的な答えはありません。これは具体的な局面ごとに私たち自身が考えて行かなければならない課題なのです。しかし一つ言えることは、その局面とは常に私たちの損得、そして私たち自身の弱さや醜さと向き合わねばならない辛い場面である事は確実です。
本物か?偽物か?それは一粒の麦が、その時に、地に落ちるか否かを問われる局面において明らかになります。
私は人生において勝利したい。それはいわゆる勝ち組というものではありません。その勝利とは復活の勝利であります。復活の勝利は、一粒の麦が地に落ちて初めて得る多くの実りであります。
本日、この受難節において確認すべきこと。それは受難とは復活の勝利に向かう途上であるということです。