共にいる約束

マタイ福音書28:

記録によれば2007年11月25日にマタイ福音書の聖書研究が始まり、月に一度コツコツと積み重ねてきた学びは先週最終回を迎えました

イエスはガリラヤで弟子たちと再会しましたが、そこには尚疑う者もいました。イエスはその者たちをも含めて派遣命令と世の終わりまで共にいる約束を与えています。即ち最後にイエスは復活を信じる弟子だけを選抜したのではありません。この事実に着目するとき、教会はその当初から完成された共同体でないことが明らかです。教会内における正統と異端についての判断は我々の守備範囲ではありません。もちろん何が神のみ心であるかについての追求はあっても、その意見の相違で対立を生むことは神のみ心ではないでしょう。

マタイ福音書は「わたしは世の終わりまで、いつまでもあなたがたと共にいる」(28.20b)この一節で閉じています。共にいるという約束。これ程ぬくもりを感じる約束があるでしょうか。それはまるで子どもが深夜のトイレに母を伴い、ドア一枚隔てた所に母がいるという約束のもとに安心して用を足す心境に似ています。

福音を伝えること、共に生きること、信じること、忍耐すること、そして愛すること。これらは「神が共にいる」という約束の上に全てが成り立っているのです。言い換えれば、その約束を欠くならば教会は「疑う者」を排除することに熱心な集団になってしまいます。

「インマヌエル(神、我らと共にあり)」という約束。それは口約束ではなくイエス・キリストご自身です。福音書に記されたイエス・キリストのご生涯全てが約束の内実であり、これを一言にすれば「わたしは世の終わりまで、いつまでもあなたがたと共にいる」となります。

この約束の上に我らは共に生きてまいりましょう。それがイエス・キリストを信じるということであり、愛するということであります。

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