許されている

イエスの十字架が意図しているもの、それは「許されている」というものではないでしょうか。伝統的な贖罪論はキリストの十字架によって実現される人間の罪のゆるしと、神との関係の回復です。しかし「許されている」とは「罪を赦されている」ではなく「存在を許可されている」という意味です。キリストの十字架が明らかにしたのは人間の罪ですが、これを言い換えるなら人間は永久に不完全であるということです。誰もが異なる価値観を持って生きています。そしてそれぞれの価値観には何らかのエゴが隠されているものです。しかし人は自分の価値観を正しいものと信じその中に隠されているエゴに気づかない。そしてその「正しさ」を他人に押し付けたり統一したりしようとします。
人間は神ではないことを知るべきであり、それ故、善悪の知識の木の実を取って食べてはいけないのです。我々人間はそれぞれ不完全でありながら、それでもその不完全さを許されている。許されているのであって決して正しいのではありません。許されて生きている自覚にこそ対話の可能性が開かれると思います。
受難節を過ごしながら許されていることを再確認したいと思います

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