食卓の平和(ヨハネ21.1-14)

ヨハネ福音書における復活のイエスはご自身を弟子たちに顕した時「平和があるように」と言われました。しかし本章(21.1以下)にはその言葉が見当たりません。しかしそれに代わって(と解釈して)復活のイエスは弟子たちと共に食事をされています。おそらく福音書記者の意図としてはこの食事が平和のメッセージであり聖餐式を意味していると考えられます。
イエスの福音は聖書によって伝承されていますが、イエス自身は書物を書き残していません。恐らくイエス自身は「過ぎ越しの食事」の儀礼にのって福音(十字架の贖罪)の伝承を考えたのではないでしょうか?
聖餐式の本質は和解と平和です。共に食する所に和解と平和があります。確かに、伝承によればパンとぶどう酒はイエスが十字架で裂かれた身体と流した血を比喩し、その裂かれた身体と流された血によって人間の罪が許されたとするものです。しかし「罪が許された」とはそれで犯した罪もこれから犯す罪も全て許され罪なき人間となったという意味ではありません。そんな都合の良い話はありません。
十字架による赦しとは、互いに赦し合うところに力点があります。イエスが弟子たちを愛したように、弟子たちも互いに愛し合うことが要求されていますが、それと等しく赦されたとは互いに赦し合う和解と平和を指し示すものです。
MLキング牧師の「I have a dream」に次の一節があります。
「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。」
一緒に食事のテーブルに付くことは、分断され差別され弾圧されている人々からすると、それは和解と平和そのものであります。今共に礼拝を守れない苦しい時でありますが、私たちは教会だけでなく自宅で食事に預かる度に福音の恵みに預かっていることに感謝してこの一週間を歩んでまいりましょう。

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