わたしの羊を飼いなさい(ヨハネ21.15~25)

キリスト者にとって究極的な問いは、主イエスから「私を愛しているか」と問われる所に行き着くのかも知れない。
復活のイエスはペテロに問いました。
「この人たち以上に私を愛するか?」
イエスの関心は愛の深さについての序列ではない。そもそも愛を程度の問題として他人と比べるものではない。
イエスの愛は、私たちは(複数形)ではなく、また、他の誰が(第三者、世の中)どうであれ、あなたはどうなのか?が問われている。即ちイエスの愛は単独者として一対一で向き合う愛なのだ。このイエスの問いの関心はそこにある。
先ずは、独立して単独者として周囲に同化して流されるのではなく、私はどうなのか?そういう質の愛として、あなたは私を愛しているか?とイエスは一人ひとりに問うている。
ペトロは答えた「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」
確かに、イエスを見捨てたペトロとしては胸を張って答えられる場面ではない。聖書の愛は隣人の為に自分を捧げる愛でありその究極は命を捧げる。確かにこのペトロにはその覚悟が備わっていた。しかし最後の晩餐で「あなたの為なら命を捨てます」(13.27b)と言い切ったペトロではない。今のペトロにその覚悟が備わっていても人間という存在は、そんなことを偉そうに、言い切ることなど出来ない、小さく弱い欠けだらけの存在であることを、この時のペトロは身に沁みて知るものであった。
キリスト者に対する、究極的な問いは?
行き着くところ主イエスから「私を愛しているか?」と問われる所に行き着く。
しかし、この問いに対して一点の曇りなく「はい愛しています」と答えことのできる人間がこの世にいるだろか?
私は主イエスを愛しています。しかしそこには様々な矛盾や限界が含まれていることを私以上に既に主がご存知である、ということを私は知っている、という所ぐらいまでなのではないか。
このペトロの答えは、人間の成せる精一杯の答えではないか。換言すればこれ以上を答えてはならない。そのようなペトロにイエスは「わたしの羊を飼いなさい」と命じている。これは「主イエスを愛する」と同義語である。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10.11)。キリスト者は自身の中に様々な矛盾と限界を抱えつつも、主を愛するという告白が隣人に自らを捧げるという形で受肉するのである。先ず父なる神がそうであられたように。
今日も主イエスは私たち一人ひとりに問います。「この人たち以上に私を愛するか?」
主のご命令(わたしの羊を飼いなさい)に従うことを持って、七転び八起き、その問いに答えて参りましょう。

孫裕久

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