福音による自由(マルコ1.9-14)

ヨハネから洗礼を受けたイエスは天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うものである」との声を聞いた。これはイエスが神の子としての召命を授かったことを意味している
神の子イエスは直ちに宣教を開始することなく先ず霊によって荒野に送り出された。荒野とは律法の支配が及ばぬ所を意味しておりそこには自由がある人は律法から解き放たれ自由となるが同時にこれまで律法に保護されていた事を知る。
律法の支配下においては、律法を守ってさえいれば良かった。言い換えれば律法で裁かれない範疇であるなら何事も許された。律法は兄弟にバカと言った者を裁けるが、心の中で死ねと呟いた者を裁くことは出来ない。
荒野では律法の支配を受けないが、同時に律法の保護も得られない。確かにバカと言ったその言葉を裁く律法はそこにない。しかし同時に心の中の呟きを隠蔽してくれる保護もないのである。自由とはそういう所なのだ。それに耐えきれぬ者は律法の保護を求める。ナニモノかが脱走した筈の檻に自ら自分を投獄するが如く律法の被支配への逃走を駆り立てる。それがイエスを襲った誘惑の正体である。
神の子の召命を授かったイエスは荒野を経て宣教を開始した。そこに意味がある。自由を捨て再び律法の支配に隷属するか。自由を貫くか、如何にして。
そこから絞り出されたのが「福音を信じる」という道であった。律法の支配下・保護下ではなく、信じるという道を選んだ。なおこの自由を確保しうる道の存在を福音によって信じたのである。そして「信じなさい」と呼びかけたのである。

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