手を差し伸べて(マルコ福音書1.40-45)

「重い皮膚病」の直訳は「打たれた者」、その意味は「神の罰」である。この患者はその罪のゆえに神に打たれ、罰を与えられた者として見做されていた。

「打たれた者」たちは感染防止の為、人々から一定距離を保つことが律法で定められている。しかし彼はその距離を侵してイエスに接近し「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と迫った(1.40)。

律法の定めで人に近づけない彼が救われるためには律法をおかしてイエスに接近しなければならなかった。在日朝鮮人が外登法による指紋押捺から解放されるため指紋押捺を拒否したように。戦後住む場所を追われた朝鮮人が安住の地を求めて河川敷を不法占拠したように。

関田牧師によると李有彩姉が金光燮くんを連れはじめてこひつじ保育園を訪ねた時の最初の言葉が「朝鮮人でも入園できますか」であった。何故かその言葉が「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」というこの患者の言葉と重なる。

李有彩姉のその言葉に誘われるかのように川崎戸手伝道所は土手を越えていった。律法で触れることを禁じられている重い皮膚病の患者にイエスが手を差し伸べて触れたように。

いったい救われたのは何方なのだろうか?イエスの「よろしい、清くなれ」(1.41)の「よろしい」は上からの許可ではなく、むしろ「もちろんだ」という同意の意味が強い言葉である。律法をおかしてイエスに接近した人、同じく律法をおかしてその人に触れたイエス。そこに我々の救いの原点がある。

孫 裕久

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