命を救う律法(マルコ3:1-6)

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。(3:4)

この一言がイエスの律法に対する基本姿勢を確立した。同時に古い教えと新しい教えの対立は決定的なものとなった。イエスは神の子であるが人として生まれた。人である以上イエスも不完全であることに変わりない。言い換えるなら、完全な方が不完全をも身を以てご経験下さった。イエスは答えを携えてこの世にお生まれになったのではない。病人や罪人との出会いと経験を通じて成長された。注目すべきは到達したその答え以上に、その答えが出会いと経験を経て得られた点にある。

イエスの敵対者はイエスを訴える口実を得るために安息日律法の利用を企てた(3:2)。これが古い教えの正体である。既にある結論を正当化する道具としての律法である。我々は無意識にこの古い教えに支配されている。親は子を教育する。しかし子が成長すれば必ずしも常に親が正しいとは限らない。反論されたとき親はそのプライドを守る(という結論の)ために知る限りの律法を導引するものである、というのは経験上の話であるが。

律法による自身の正当化は律法に違反していない点を強調する。「耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。(レビ19:14)」古い教えによれば、この律法は自分が裁かれないために悪く言ったり、障害物を置かなければそれでよい。自分が裁かれない為に何をしなければ良いかが重要視される。そして悪く言ったり、障害物を置かないことが自分の正しさの証明となるのだ。

これに対してイエスの新しい教えは「言葉が事実となる」ものであるが、ここに欠かせない要素が2つある。一つは隣人(それは隣人との関係を含む)、今一つはその隣人(この場合隣人とは常に困窮している)に私は何ができるか?この2つの要素が欠落したところで論ずる律法や善悪(それを肯定するも批判するも)は全て古い教えである。古い教えが「何を禁じているか」に焦点が置かれるなら、イエスによる新しい教えは、律法は何を許しているかに置いている。即ち(3:4)は、律法は何を禁じているかより、何を許しているかに注目する。古い教えは判決を下すが、新しい教えは(言葉は)、「何を許しているか」、故にその許す事実(命を救う)を生んでいくのだ。

目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。しかし本来律法は障害物を置きさえしなければ良いと言っているのではない事を、今、目の見えない人と出会い自分に何が出来るのかと考え悩む者には分かるのである。

目の前の隣人に私ができること。律法がそれ(命を救う事)を許すなら、それは律法が禁じるそれ(汚れたものに触れるな)に勝るのだ。

かくして川崎戸手伝道所は堤防を超えて行ったのである。

孫 裕久

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