本末転倒

マルコ福音書2.18-22

イエスが断食をしなかったのは、律法による是非の問題(有罪無罪)から自由になろうとする萌芽と考えて良い。断食はすべきか?しなくても良いか?という枠を出て何のために断食するのか?という自問自答が断食しなかったイエスの背後に伺える。そしてその問いは更に律法の本質へとイエスを誘った。

他人の麦畑で穂を詰むことは律法で許されている(申命記23:26)。しかしそれが安息日であったため収穫作業とみなされファリサイ派の非難を浴びた。これに対するイエスの弁明(2:25-26)は旧約聖書によって正当化するために後から教会によって引用されたものなので、ここでは考慮に入れない。イエスの答えは「安息日は人のために定められた、人が安息日のためにあるのではない」(2:27)である。そもそも安息日は人に休息を与えることを目的としており(申命記5:14)「仕事をしてはいけない」という禁止律法ではない。仕事の禁止が強調されたのは捕囚期で、神殿を失いバビロニアに連行されたイスラエルの民が安息日を厳格に守ることでイエスラエルの信仰(アイデンティティ)を守ったところに起因している。

即ち、休息を与えるにせよ自分が何者であるのかを自覚にするためにせよ安息日律法は人のために機能してきたのである。

したがってイエスの答えを換言するなら、律法が大切なのではなく、人が大切なのだということであり、律法の信頼性を担保するための代償として罪人を生産するのではなく(重い皮膚病患者=原因は罪)、人が生かされていくために律法が用いられるべきということである。

しかし、だからといって律法で人を裁く人を裁いていては、永遠に是非を問う所から脱出することは出来ない。そこでイエスは答える「安息日は人のために定められた」と。私たちがこの負のスパイラルから抜け出す唯一の道は律法ではなく人と向き合うことです。

教会のために人があるのではなく、人のために教会があるという眼差しを持つことです。教会の発展、安定、平和、未来のために人が努力したり我慢したりするのではなく、人のために教会があるということです。川崎戸手教会の歴史はそれを証明しています。そこに生きる人と出会いその人に関わり川崎戸手教会は教会とされ、そこに集う信徒は一つになってきたと私は振り返ります。

孫 裕久

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