中に入る

マルコ3:31-34

イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

イエスは自分を訪ねてきた家族を差し置いて、その場にいる人々を指してそのように言った。すなわちその場に居た人々が自分の家族であり神の御心を行う人であるとの事である。

河川敷とは堤外地であるが、その堤外地に住む人々は自らを外の人とは言わなかった。人は自分が立つ場所を中心に世界を見ている。ここは土手の中であり街区こそが外であった。この土手の中には街区(外)にある民族団体の確執や外国人差別はなかった。それは彼らが土手下朝鮮という街区(外)からの差別を共に背負っているからである。もちろん人間的な好き嫌いによる喧嘩はあったが国籍や南北の違いなどを理由に互いの弱さを差別することはなかった。むしろ彼らはその点においては許し合っていた。

イエスの言う神の御心を行うとはそのような関係を指しているのではないだろうか。そしてその関係は彼らが特別許し合える人間性を持っていたからではなく共に中で暮らしている状況がそのような関係性を生み出していたといえる。パウロが言うように神の家族は弱さで一つになるのである。

マリアらは中に入ろうとはしなかった。何故ならそこには徴税人や重い病に苦しむ人がいた。常に罪人がイエスの周りを取り囲んでおりそこは汚れていた。故にマリアらは外に立ち外からイエスを呼びに行かせた。すなわち中に入らなかった。イエスが血縁の家族を差し置いて自分の周りに座っている人々を家族と呼び、神のみ心を行う人であると言ったのは、言い換えるなら罪人は中の人であり、マリアらは外の人であるとの意味である。罪人は互いの罪を裁かない。自分が罪人であることを良く知っているから。

中に入っていきましょう。中にこそ神のみ心があり宣教とは中に向かっている。そして迷える一匹の羊が我らをその中へと誘うのである。

孫 裕久

 

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