嫉妬

マルコ3:13-19

イエスの新しい教えがベルゼブルによるとの誹謗に対して反論するのは時間の浪費である。ベルゼブル論争の中心はそこにはない。イエスの敵対者はイエスの評判に嫉妬した。ベルゼブル云々はその嫉妬から生まれた汚れた戯言であって問題の中心は嫉妬の中身にこそある。

愛する者の愛情が他に向くことへの嫉妬は人間として当然である。しかし他者の善行に集まる評判に嫉妬するのは彼が偽善者であることの現れなのだ。

偽善者は評判に囚われる。偽善者の目的は評判を集めるところにあり、彼の善行はその手段であるに過ぎない。そこに偽りがある。

評判を気にしない人間はいない。しかしその評判に囚われると他者の評判に嫉妬する。そして最悪その嫉妬は評判を集めるものの善行を貶めようとする。

イエスの敵対者らはイエスの新しい教えそのものに着目できなかった。それは彼らが偽善者である故に評判にのみ関心が寄せられたからだ。

嫉妬とは何なんのか。如何にすれば嫉妬せずにすむのか。望むと望まずと教会(に限ることではないが)は評判というまな板に置かれる。言い換えるならそれを全く気にしないで居ることはできない。何故なら教会(に限ることではないが)はこの世に存在しているからだ。この世は評価する。その評価によって評判は左右される。町の中にあって教会(に限ることではないが)は良い評判を集めねばならない。言い換えるなら悪評を得ないよう注意や配慮が必要だ。人が安心して集えるように。しかし教会(他はともかく)はそれでも評判を気にしないよう頑張らねばならない。それがベルゼブル論争から私たちが学ぶことなのだ。ベルゼブル論争の根本は、評判を得る所に本質を見落として偽善が生まれ、その偽善が嫉妬を生み嫉妬が汚れた言葉を吐かせたところにある。

この世で100%評判を気にせず存在することはできない。しかしそこに僅かでもそれがあったことを確かに認識しておくべきなのだ。躓きを与えぬ配慮は必要だが、些細な評判を気にするそこにパン種ほどの偽善が蒔かれる。偽善は嫉妬を芽生えさせ、嫉妬は汚れを実らせる。教会(他はともかく)は努めてそれに抗う共同体であるといえる。迷える1匹の信頼を得るために99匹の誹謗に晒されることを恐れてはならない。そこに偽善と嫉妬から逃れる本物の道があり、イエスはその道を歩まれたのだと思う。

孫 裕久

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