聞く耳のあるもの

マルコ4:1-20

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。(4.8-9)

イエスは教えをたとえで語った。何故たとえを用いるのか、またそのたとえの意味は何かについてマルコ福音書は解説している。しかし私たち最も関心をよせる「良い地に落ちた種」についての説明が不十分である。それは御言葉を受け入れた人とあるが、では如何にすれば御言葉を受け入れることができるのか?芽を出さなかったり出しても育たなかった事例の解説は詳しいが良い地についての解説は私たちにとって十分とは言えない。この世の誘惑、艱難や迫害を乗り切ったものが御言葉を受け入れるというならそれは個人の努力の結果に過ぎない律法主義に等しい。

良い地に落ちた種とは「聞く耳のあるもの」ではないだろうか。それは努力によるものではない。あえて言葉化するなら聞く耳のあるものとは、外ではなく中に立つ人のことであろう。

迷い出た一匹の羊のたとえ話があるが、聞く耳のあるものとはその一匹の存在に気づく人である。しかしその気付きは個人の能力ではなく何処に立っているかによる。外からは聞こえないものが中に立つと聞こえてくる。「聞く耳のあるものは聞きなさい」とは中の人々へ語りかけられたものであろうと思う。

ヨルダン寮は土手の中に立ってはいるが、そこに集う我々自身は外のものである。しかしヨルダン寮のお陰で中との出会いを与えられた。聞く耳のある人々との出会いを与えられた。

聞く耳のあるものが30倍60倍100倍の実を結ぶなら、私自身に聞く耳はなくとも、中の人々との出会いを通じてその恵みに僅かでもあやかりたいものである。

孫 裕久

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です