隣人を自分のように

マルコ3:7-12

汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。(マルコ3.11-12)

汚れた霊はイエスにひれ伏し敗北を認めた。汚れた霊はイエスの何に敗北したのか。

新旧約聖書を通じて「偽善者」という言葉は福音書以外に確認できない。しかもイエスだけがこの言葉を用いている。聖書における「偽善者」とは明らかにイエスの言葉でイエスは偽善者を嫌った。その裏返しはイエス自身が自らの偽善に苛まれていたといえる。

突き詰めるところ「人から評価されたい」と願わない人間はいないと私は思う。過ちを犯さず功徳を積んで人の評価を得ようとするとき(またはこれに反抗して逆に人の評価を得ようとするとき)、偽善がその人を支配する。偽善とはその行き着く所は「いいね👍」を獲得する為になされる全ての言行である。汚れた霊はこの偽善に寄生する。

ここから解放されたいイエスの目下の課題は、律法と罪人の問題であった。イエスはこの問題を克服し偽善の支配から解放された。汚れた霊はイエスに寄生する偽善を見いだせず敗北を認めた。

イエスは自分を捨てた。それは自分の救いを追求する己を捨てたことを意味する。ゴミをゴミ箱に捨てる様に自分を捨てるのは簡単ではない。捨てようと思って捨てることの出来ないのが自分自身である。イエスは目の前の隣人の救いを追求した。その追求が結果的に律法を違反させ、また罪人と飯を食った。そこに偽善はなく汚れた霊はイエスにつけ入る隙を見いだせない。故に汚れた霊はイエスにひれ伏した。

イエスの新しい教えは言葉が事実となる。事実を説明するものではない。「あなたは神の子だ」とは事実を説明したに過ぎない。偽善はこの説明を好むがイエスはこれを好まない。説明ではなく事実が重要なのだ。

イエスのもとに訪れた人々はイエスの説明を聞きに来たのではない。イエスのしておられることを残らず聞いて(3:8)、そしてイエスに触れるために(3:10)みなイエスのもとに押し寄せたのだ。

私は偽善に支配されている。何とかして自分を捨てその支配から救われたい。その近道は隣人の救いを追求するところにあるのかも知れない。故にイエスは答える「隣人を自分のように愛しなさい」と。

孫 裕久

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